【米マサチューセッツ州ケンブリッジ】12月のある朝、ハーバード大学から数百メートル離れた小さなカフェで、マーク・エイブラハムズさん(63)は紅茶とサンドイッチを楽しみながら、友人たちと週に一度の打ち合わせをしていた。話題は主に科学者のゴシップだ。
科学とユーモアを愛する人々にとって、彼は世界的な有名人だ。あの「イグ・ノーベル賞」を設立し、以来28年間、運営を続けている中心人物なのだから。ただ、ハーバードのロゴ入りシャツを着た若い女性らを含め、カフェの客たちが彼に気づいた様子はない。
「ぼくたちは世界ではすさまじい量の取材を受けているけど、地元ではぜんぜん取材されてない。本当に、まったくのゼロなんですよ」
その無関心は、著名な賞の運営を難しくしているとエイブラハムズさんは言う。今は世界一を謳歌する米国の科学の将来をも危うくする、かもしれない。
12月のある朝、友人らと話し合うエイブラハムズさん(左から2人目)=ケンブリッジ
高まる「権威」
イグ・ノーベル賞は「人々を笑わせ、そして考えさせた」研究を対象に与えられる。ノーベル賞の「パロディ」と紹介されることも多い。
エイブラハムズさんが編集する隔月誌「Annals of Improbable Research(ありえない研究の記録)」が、毎年9月に10件ほどの受賞者を発表。選考にあたるのは、この賞や本家ノーベル賞の過去の受賞者のほか、科学とは縁のない人たちも含めた約100人だ。カフェでの毎週の集まりも、その議論の場だという。
授賞は1991年に始まった。エイブラハムズさんによると、二つの動機があったという。一つは、雑誌のために何か定期的な催しが必要だったこと。もう一つは、ある種の使命感だった。
「編集者になってすぐに、すごく変わっていて素晴らしくて、面白くて驚くべきことをやってのけた人に、たくさんたくさん出会ったんです。『この人たちを誰も知らないなんて間違ってる、誰かがなんとかしなくちゃ』と思った」
とはいえ、当初は皮肉を込めた授賞が多かった。例えば初年度の授賞は以下のとおり。
化学賞:「水(H2O)は知性ある液体であることを何度も発見し、ものごとの痕跡が消え去った後もその出来事を記憶できることを、気が済むまで証明しつづけた業績に対して」
生物学賞:「ノーベル賞受賞者とオリンピック選手のみを受け付ける精子バンクを設立した先駆的業績に対して」
1993年には、米国の作家に以下の賞が贈られている。
数学賞:ミハイル・ゴルバチョフが反キリストである可能性(71京609兆1751億8828万2000分の1)を計算した業績に対して」
ただ近年では、様子が変わってきた。何の役に立つのかもわからない、おかしな研究ではあっても、科学的には正当な手続きを踏んでいるーーそんな研究への授賞が増えてきたのだ。
例えば2019年の生物学賞は、「死んで磁化したゴキブリは、生きている磁化したゴキブリとは違った挙動を見せる」との発見に対して贈られた。化学賞は「典型的な5歳児が生産する唾液量」を推計したことに贈られた。
エイブラハムズさんによると、こうした変化は意図したものではないという。賞が有名になったことが理由の一つだと、彼は推測する。
「世界中から届く推薦状の数がどんどん増えてるんです。少し前のある年にざっと計算したところ、9千件から1万件も来てました。毎年こんな感じです」
パロディから始まった賞ではあっても、その権威はある意味ですでに世界的と言える。授賞式は毎年、近くにあるハーバード大やマサチューセッツ工科大(MIT)でノーベル賞受賞者らも招いて行われる。
米国はハーバードとMITを含め、超一流の研究機関を数多く持つ世界最大の科学国家だ。その力はノーベル賞受賞者の数に表れている。
エイブラハムズさんの編集部(兼自宅)にあるイグ・ノーベル賞グッズ。授賞式で使われた、手作り感ただよう小道具だ=ケンブリッジ
米国、意外と目立たず
医学生理学と化学、物理学の自然科学3賞について、ノーベル賞の委員会は一つの賞を最大で3人の研究者に贈る。複数の人が受賞するときは、委員会は彼らが名誉(と賞金)を分け合う割合を発表している。このデータをもとに国ごとのシェアを算出すると、2010年以降の10年間で、米国の研究機関に所属する研究者は全体の49%を占めていた。英国が2位で16%、日本が3位で14%だった。
米国の優位は、研究開発への巨額投資を考えれば当然のことだ。経済協力開発機構(OECD)の統計によると、2017年の投資額は4830億ドルで世界一。36カ国が加盟するOECD全体の投資額の40%を占める。英国は430億ドル、日本は1550億ドルで、米国に遠く及ばない。
でも、イグ・ノーベル賞ではどうか。過去10年、科学研究で受賞した人のシェアで、上位3カ国の顔ぶれはノーベル賞と同じだったが、米国の比率は18%にとどまった。2位は日本で14%、3位は英国がフランスと並んで8%だ。ノーベル賞と比べれば、米国の存在感はかなり小さい。
本家とパロディの違いがあるとはいえ、ここまでの差はなぜ生まれるのか。イグ・ノーベル賞の過去の受賞者たちに尋ねたところ、8人がメールで返信をくれた。
お金では買えない?
答えは主に二つあった。ひとつには、イグ・ノーベル賞はノーベル賞とはちがって、お金で買えるようなものではないからだという。
ある種の昆虫のメスがペニスのような器官をもっていることを発見して2017年の生物学賞を受けた北海道大学の吉沢和徳准教授は、「(米国は)投資額が圧倒的だからこそ、ノーベル賞のシェアが圧倒的なだけだと思う」とのコメントを寄せた。「イグ・ノーベル賞は、資金が集まる研究に与えられるわけではなく、狙って取れるような賞でもありません」
立命館大学の東山篤規教授は、学問の自由がある国なら、イグ・ノーベル賞は「どこでも一定の割合で獲得できる機会」があり、受賞数は人口に比例するのではないかと推測した。彼は、立った状態で股の間に頭を入れて視野を上下逆さまにすると、遠くのものがより小さく、また近くに見える「股のぞき効果」と呼ばれる不思議な現象を報告し、2016年の「知覚賞」を受けている。
米ジョージア工科大のデビッド・フー教授は、「イグ・ノーベル賞は科学者が自分自身の好奇心を追い求めた結果だ。だから(政府からの)助成金に頼る、ノーベル賞につながるような研究とは違う」とみる。彼は、哺乳類がオシッコをするのにかける時間は体の大きさにかかわらず一定であることを解き明かし、またウォンバットが四角い形のウンコをする理由を研究した功績で、2015年と2019年に物理学賞を2回受けた。
「イグ・ノーベル賞を受けた私の研究は、(政府の)投資をもらったことは一度もありません。私が話したことのある他の受賞者も同じでした」

米国人は関心なし?
もう一つの答えは、アメリカ人はイグ・ノーベル賞に興味がない、というものだ。
昆虫に刺された時に感じる痛みを数値で表す「シュミット虫刺され痛み指数」を考案し、2015年に「生理学・昆虫学賞」を受けた米アリゾナ大のジャスティン・シュミット博士によると、米国では賞の価値が過小評価されているという。
「米国はイグ・ノーベル賞を取るような類の研究には投資しないし、社会はそういう賞をとる研究をしている人を見下しがちです。受賞されれば祝福されるのですが」と彼はコメントした。「好奇心はお金を産まないのです」
シュミットさんが不満に思ったとしても当然だろう。「グラフェン」という炭素化合物の研究で2010年にノーベル物理学賞を受けたロシア生まれの研究者アンドレ・ガイム博士は、その10年前に、超電導を利用してカエルを空中に浮遊させた研究を評価されてイグ・ノーベル物理学賞を受けているのだから。
米物理学会は2012年、「イグ・ノーベル賞の研究は真剣なのです、いやホントに」と題した記事を配信し、こう書いた。「(賞を)与えられる研究者の論文は、パッと見たところはバカげていてくだらないが、その背後には意味深い科学があるのである」
この年、「人間のポニーテールの髪型を形成し動かす力学的均衡」を計算してイグ・ノーベル物理学賞を受けた英ケンブリッジ大のレイモンド・ゴールドシュタイン教授は、取材にこんな返事をくれた。
「米国の(イグ・ノーベル賞の)受賞率が相対的に低いことは、米国の科学者が問題を広い視野で、そして面白おかしく考えるための自由を持っていないことを示しているのだと思われる。米国外にいる我々は、知的に自由です」
Annals of Improbable Researchの編集部(兼自宅)でポーズをとるマーク・エイブラハムズさん=ケンブリッジ
日本と欧州で人気
ジョージア工科大のフー教授は、イグ・ノーベル賞は残念ながら米国より、日本と欧州でよく知られているとコメントした。日本ではとくに人気が高いという。
「日本がとてつもなくイグ・ノーベル賞を受賞しているのは、彼らの文化がそれを祝福し、評価するからです。日本ではテレビのドキュメンタリー番組もいくつか放送されたし、イグノーベル賞の博物館まであリます」
東京では2018年、イグ・ノーベル賞を紹介する特別展が1ヶ月以上にわたり開かれている。
国や地域ごとの関心の違いは、イグ・ノーベル賞を紹介する記事の数に現れている。賞の地元で発行されているボストン・グローブが2010年以降、イグ・ノーベル賞について書いた記事は、グーグル検索で5件しか見つからなかった。米国内の他紙と比べても多いとは言えないことが、以下の表を見ればわかるだろう。また、全体として英国人や日本人の方が、米国人よりもイグ・ノーベル賞に大きな関心を持っていることも想像がつく。
長野県駒ヶ根市にある昭和伊南総合病院に勤務する堀内朗医師は、イグ・ノーベル賞の栄誉を楽しむひとりだ。彼は座ったまま自らのお尻の穴に内視鏡を入れて腸内を調べる手法を開発し、2018年の「医学教育賞」を受賞した。
「(私が)一介の医師であるのは変わりませんが、大手製薬会社が教授格として対応してくれるようになりました。病院は全国に認知されました。駒ヶ根市に関わりのある方は、田舎の人間でも全国的な話題になりうるのだと、誇りを持てたようでした」と、堀内さんは取材に答えた。
「問題はただ一つ、(私の)素行がチェックされるようになり、浮気の一つもできない状態になってしまいました」
それ、役に立つ?
浮世離れしているように見えた研究が世界を大きく変えた事例は、いくつもある。アインシュタインの空想が産んだ相対論は、原子力発電や全地球測位システム(GPS)を可能にした。近い将来のノーベル賞が確実視されているゲノム編集技術の基礎には、大腸菌のDNAのある部分に同じ塩基配列が繰り返されているという、1986年の発見があった。その発見がいずれ何かの役に立つとは、当時は誰も考えていなかった。
役に立たなそうな研究こそ大切だ、と考える科学者は多い。英国の科学雑誌ネイチャーは2016年、「基礎研究は投資に値することを、研究機関は示すべきだ」と題した論説で、このように主張した。
「民主主義においては、政治家たちは選挙民に対し、自分たちは成功しているし、納税者のお金をくだらないことで無駄遣いしてはいないのだと、5年おきくらいに示しつづけなくてはいけない。科学コミュニティーは自分たちがある程度の成功を生み出しているのだと示し続ける方法を見つける必要がある」
とはいえ、ボストン市民がイグ・ノーベル賞に無関心なのをエイブラハムズさんが嘆くのには、もっと差し迫った理由がある。
知名度とは裏腹に、イグ・ノーベル賞を運営するのはごく小規模な組織だ。エイブラハムズさんはボランティアの助けを得ながら、ほとんど一人で編集作業を担っている。有料の読者は数百人で、生活のためには、講演をしたり他のメディアに寄稿したりして、お金を稼ぐ必要があると彼は言う。
毎年開く授賞式には約5万ドルかかる。チケットの販売収入で費用を賄うが、海外から招待する受賞者に航空料金を支払う余裕はない。ホテル代も支払えない。受賞者にはボランティアの家に泊まるよう頼んでいる。
「ぼくたちはずっと、お金をくれる組織をみつけられたらと願ってきたんですけど、それはすごくむずかしいんです」とエイブラハムズさんは話す。「スポンサー探しのためには、地元で注目されなくてはいけません。このあたりにある組織はたぶん、(イグ・ノーベル賞の)存在すら知らないと思います」
地元の人の関心はなぜ低いのか。ボストン・グローブのデビッド・ダール副編集長に、記事の数が少ない理由をメールで尋ねた。
質問を送ってから2週間近くが過ぎた。返事はまだ来ていない。

(2019・12・26)

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